順徳上皇伝説を発信 屋敷跡地に石碑建立計画
津幡町・御門地区 (つばたまち・みかど)
鎌倉時代に順徳(じゅんとく)上皇が現在の津幡町御門(みかど)に滞在した伝説を広く伝えるため、御門区周辺の住民が中心となって、屋敷跡地に石碑を建立する。
8月に「順徳上皇御門屋敷跡」碑建立委員会を設立する。
委員会は、英田公民館と連携して地区内にある順徳上皇ゆかりの地を巡るウオーキングツアーを実施し、地元住民への周知を進める。
ウオーキングツアーも企画
英田地区の歴史を調査する住民グループ「英田塾」や書物「石川懸河北郡誌」によると、順徳上皇は1221(承久3)年の承久の乱に敗れて佐渡に流される途中で、大しけに遭い、やむなく王崎(現在のかほく市大崎)に上陸、杉谷内(現在の御門)に屋敷を構えたとされる。
地区内には、大しけの際に光を発して順徳上皇を導いたとされる聖徳太子像のある廣済寺(こうさいじ)のほか、滞在時に飲料水を献上するために掘ったと伝わる龍ケ口井戸跡など、順徳上皇ゆかりの場所が点在している。
一方で、屋敷跡は現在、水田となって何も目印となるものがないため、シンボルとなる石碑建立を計画した。
計画では、石碑は高さ2メートルで、「順徳上皇 行在所 御門屋敷跡」の文字を記す。
由縁を示した説明看板も設け、佐渡へ到着した際に詠んだとされる歌「なからへて たとへは末に かへるとも うきはこの世の 都なりけり」を添える。
英田塾の渡邊恒彦代表(77)は「順徳上皇ゆかりの地だと知らない世代が増えてきている。忘れ去られる前に郷土史として後世に伝えていきたい」と話した。

順徳上皇
1197(建久8)年に第82代後鳥羽天皇と藤原重子の間に生まれ、1210(承元4)年に父・後鳥羽上皇の命を受けて第84代天皇となった。
1221(承久3)年、後鳥羽上皇や土御門上皇らと皇権回復を目的に討幕の兵を挙げたが、鎌倉幕府軍に鎮圧された。

北國新聞:平成30年8月8日朝刊より一部コピー↑
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鎌倉時代に順徳(じゅんとく)上皇が現在の津幡町御門(みかど)に滞在した伝説を広く伝えるため、御門区周辺の住民が中心となって、屋敷跡地に石碑を建立する。
8月に「順徳上皇御門屋敷跡」碑建立委員会を設立する。
委員会は、英田公民館と連携して地区内にある順徳上皇ゆかりの地を巡るウオーキングツアーを実施し、地元住民への周知を進める。
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英田地区の歴史を調査する住民グループ「英田塾」や書物「石川懸河北郡誌」によると、順徳上皇は1221(承久3)年の承久の乱に敗れて佐渡に流される途中で、大しけに遭い、やむなく王崎(現在のかほく市大崎)に上陸、杉谷内(現在の御門)に屋敷を構えたとされる。
地区内には、大しけの際に光を発して順徳上皇を導いたとされる聖徳太子像のある廣済寺(こうさいじ)のほか、滞在時に飲料水を献上するために掘ったと伝わる龍ケ口井戸跡など、順徳上皇ゆかりの場所が点在している。
一方で、屋敷跡は現在、水田となって何も目印となるものがないため、シンボルとなる石碑建立を計画した。
計画では、石碑は高さ2メートルで、「順徳上皇 行在所 御門屋敷跡」の文字を記す。
由縁を示した説明看板も設け、佐渡へ到着した際に詠んだとされる歌「なからへて たとへは末に かへるとも うきはこの世の 都なりけり」を添える。
英田塾の渡邊恒彦代表(77)は「順徳上皇ゆかりの地だと知らない世代が増えてきている。忘れ去られる前に郷土史として後世に伝えていきたい」と話した。

順徳上皇
1197(建久8)年に第82代後鳥羽天皇と藤原重子の間に生まれ、1210(承元4)年に父・後鳥羽上皇の命を受けて第84代天皇となった。
1221(承久3)年、後鳥羽上皇や土御門上皇らと皇権回復を目的に討幕の兵を挙げたが、鎌倉幕府軍に鎮圧された。

北國新聞:平成30年8月8日朝刊より一部コピー↑
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